「フォンテ兄様、わたしです」 「シェルタ? どうぞ」 許可の言葉を聞いてからシェルタが軽く扉を押すと、あっさり開いた。鍵はかかっていないのだ。 部屋に入り、後ろ手で扉を閉める。中はシェルタの自室よりは広く、机や椅子は質素な木製のもので、窓際にはシェルタの部屋と同様に水蓮の鉢が並んでいた。 部屋の主は椅子に座ったまま、穏やかに笑った。 「また抜け出してきたのかい、深窓の姫君? 意外にお転婆だよね、君は」 「……そんなことはありません。日頃まったく出ないのですから、これぐらい許されてしかるべきです」 シェルタが小さく唇を尖らせると、部屋の主──フォンテはくすくすと笑った。 フォンテは、シェルタの異母兄に当たる。他の兄たちと比べると色白でほっそりとしているが、眼鏡の奥の瞳は──彼もまたアヴェント・ブルーの色だ──いつも理知的で優しい。 シェルタは一族の長と正室との間にできた末娘であったが、フォンテは側室が生んだ息子だった。今年で十八と、シェルタと一つしか年が違わないが、年の割には大人びており、一族の中でも唯一と言っていいほどシェルタとまともに会話してくれる存在だった。 「で、今回はどうしたんだい? 退屈で抜け出してきたの?」 「……違います。お聞きしたいことがあったんです」 シェルタは手にしていた白い包みを長机の上に置き、開いた。青く変色した花弁が現れる。 「さっきの雨で濡れたんだね。でも、これがどうしたんだい?」 「よくご覧になってください。この花弁……雨で濡れ、散ったにしてはずいぶんと変色の 進み具合が早いと思いませんか?」 ふむ、とフォンテは顎に手を当て、考え込むような仕草をした。 「この花弁が雨に打たれたのは今日で三度目でした。しかし三度濡れたからといって、これほどまでに変色が進むのはおかしいと思うのです」 「……仮にそうだとしてだよ、シェルタ。君の言う通り、雨による変色の進みが早いということは、はじめからその草花自体が弱っていたということではないのかい?」 「もちろん、それも考えられます。しかし、そうだと特定することもできません」 フォンテは眉尻を下げた。 「つまり君は、こう考えているのかな。雨の毒性そのものが強まっているのでは、と」 シェルタはうなずいた。 「もし君が言うように雨の毒性が強まっているというのなら、すなわち、海の毒が強まっているということになる」 「……はい」 「我らの母なる海は確かに毒をもっている。だが、その毒の強さは常に変わらない。それが母なる海の厳しさであり慈愛──」 「《オチェーアノ》の教えですね。わかっています。ですが、本当にそうなのでしょうか? 本当にずっと変わらないのでしょうか。もし強まったりでもしたら、早い段階で対応せねば被害が拡大し──」 なおも続けるシェルタに、フォンテは苦笑した。 「《水の一族(アヴェント)》の姫君がそんなことを言うのはいただけないな。海が変わらないのはいいことであるはずだ。違うかい?」 威圧的ではなく、優しく諭すように言われてしまうとシェルタはうなだれて返事をするしかない。自分が不謹慎にも、ここへ来る口実ができたと思って──少し浮かれていたことに気付いて、恥じた。 《水の一族(アヴェント)》は海の神《オチェーアノ》の眷属の末裔だ。一族は、《オチェーアノ》の教えを信じるオチェーアノ教の中枢にいる存在であり、その一族の者であるにもかかわらず教えに反することを考えるなど痴れ者扱いされる。 「熱心なのはいいことだけどね、シェルタ。そんなに焦らなくても、君はちゃんと必要とされているから」 やんわりと核心を突かれてしまうと、シェルタはもう後を続けられなくなる。心の奥を見透かされてしまったような気がした。 「不安なら、そこの器具を使って調べてみるといいよ」 「……はい、ありがとうございます」 シェルタは羞恥で顔に熱を感じながらも神妙にうなずき、試験管や匙、特殊紙の並ぶ机上に眼をやった。一応は調べて、自分を納得させたかった。早速実行に移そうとしたところで、人の足音がした。かなり軽快で、速い。 「うわっ、シェルタ、早く隠れ──」 フォンテが焦り、それ以上にシェルタも焦ってあたふたしているうちに、扉はいきなり開いた。 |
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