一章 にわか雨が止むと島の鐘は止み、長い余韻が尾をひいた。 軒先や橋の下、あるいは街路樹の下で雨をしのいでいた人々が、溜息をつきながら表に出てくる。橋のアーチの中で雨を逃れていた小舟は、おそるおそる漕ぎだして水路を行き始めた。 《雨》が止んだあと、念のため、シェルタは真水で身を清めた。唯一の侍女、ノーチェに身体を拭かれ、新たな衣を着せられる姿見の中の自分を碧眼で見つめる。 長い髪は月の光を思わせる白銀で、白い首と鎖骨をたどる細い首飾りの先には、滴型の宝石が繋がれている。 すらりとした身を包むのは青と白を基調としたドレスで、長袖の先やくるぶしまである裾にはレースがあしらわれ、刺繍がほどこされていた。《水蓮》の描かれた帯に結ばれた腰は細い。 その容貌はさながら開花し始めた初々しい百合を思わせた。 《水の一族(アヴェント)》が一度雨に打たれたぐらいで命を脅かされることはないが、 一族の者であるからこそ常に入念に管理がされるのもまた事実であった。 「姫様、飲み物をどうぞ」 「ありがとう、ノーチェ」 自室の窓辺に並べた《水蓮》の鉢に一度目をやりつつ、シェルタはノーチェが用意した盆に顔を向けた。真水が中ほどまでに注がれたガラスの透明な水差しに、空のグラス、その隣に柑橘類や砂糖類が用意され、好みによって水に垂らして飲めるようになっている。 ノーチェが水をグラスに注ぎ、シェルタの希望通りに砂糖を少し落とし、オレンジを絞ってした。 ただ一人の侍女であるノーチェは長い赤毛をきっちりとまとめてボンネットの中に隠し、ふくよかな身体を質素なお仕着せに包んだ少女だ。血色のよい頬を緩ませ、優しい笑みを浮かべている。 シェルタはグラスを受け取って、縁に唇をつけた。 (……?) すぐに違和感を覚えた。これはオレンジ水のはず。 とたん──息がつまった。 (こ、これは) 口に含んだものをなんとか嚥下する。が、そこに本来あるべきはずの柑橘の爽やかで甘い後味はない。むしろ塩辛い。 「姫様?」 ノーチェが少し首を傾げて聞いてくる。その大きな瞳にきらきらと期待の光が輝いているのを認めると、シェルタはとても、ノーチェの初歩的な過ち──砂糖と塩を間違える──を暴露する気にはなれなかった。 無言で何事もなかったかのようにまたグラスを傾ける。 「ひ、姫様、お顔が青く……」 「……大丈夫」 シェルタは淡々と答えた。つとめて冷静に無表情を保ったつもりであった。だが、それなりに付き合いの長い侍女は異変に気付いたらしい。 「ま、まさか」 そう言って、ノーチェは予備のグラスにシェルタと同じものをつくり、おそるおそる口にする。次の瞬間、びしりと固まった。機械仕掛けのごとく角張った動きでグラスを置く。 そしてシェルタに向き直ると、とたんに大粒の滴を眼の端に盛り上がらせた。 「ももももも、申し訳ありませんシェルタ様……っ!! 私ってばまた失敗を!!」 ぐいと深く腰を折り、ノーチェは何度も頭を下げる。 ノーチェの失敗癖はいまにはじまったことではないので、シェルタは苦笑いで答えた。 「いいよ、毒じゃないんだし」 「いいえ! すぐにお下げしますっ! 塩を砂糖と間違えるなんて……っ!!」 ノーチェは涙目になりながら更に訴えた。 「せっかく御水(おみず)を使ったのにこんなことをしてしまうなんて……わたし、わたし──」 「ノーチェ落ち着いて──」 またいつもの癖が、と少し焦って、シェルタは先んじてなだめすかそうとした。だが、肩を震わせ、大きな眼を潤ませたノーチェが爆発するほうが早かった。 「もう侍女失格ですーっっ! こんな間抜けでどじな娘がシェルタ様の身の回りをお世話する資格なんてっっ!」 「そ、そんなことないよ!」 シェルタは慌てて言い募ったが、ノーチェはわあわあ泣き出す。おっとりとした娘だが、少し思い込みの強いところがあって、何か失敗するたびにこうして侍女をやめると言い出すのだった。しかも本人は毎度本気なのだ。 「の、ノーチェ! 私、お腹が空いたわ!」 「他の侍女に頼んでくださいぃ……ううっ」 「食事は信頼を置けるものにしか頼めないよ! ノーチェじゃなきゃ駄目なの! 他に誰がいるの!?」 すると、ぴたっとノーチェが動きを止めた。 「私でなきゃ駄目……」 「そ、そう! ついでに砂糖も持ってきて、またオレンジ水を作ってくれると嬉しいな!」 シェルタは勢いよく首を縦に振る。 呆然と言葉を反芻したノーチェは、やがて陶然とした顔つきになり、それから雨上がりの空のようにぱあっと笑顔になる。 「はい! すぐにお持ちします!」 くるりときびすを返し、鼻歌が聞こえてきそうな足どりで部屋を出て行った。 その弾んだ後ろ姿を見守り、シェルタは脱力しつつ笑った。 それから何とはなしに部屋の中を見回す。 この部屋には分厚いガラスの窓が一つ、その窓際には水蓮の鉢が並べられていて、天蓋付きの寝台、化粧台、姿見、壁には本棚、そして机と椅子があった。 シェルタは机まで歩いていくと、上に置いてある白い包みを解いた。中身は、先ほど覆いが間に合わないためにまともに雨に打たれてしまった草花の花弁や茎の部分だ。 ひとさし指と親指でそれをつまみあげ、観察する。花弁はもとは鮮やかな赤色や黄色であったのに、いまは青く沈むような色をしている。 (……濃すぎる、よね) 青く変色してしまった花弁を見つめたまま、シェルタは独語する。 いつもの雨ならもう少し青が薄いはずだ。かといってそれほど大幅に違うというわけでもなく、気のせいだと言われたら、それまでなのかもしれないが──。 ううん、とシェルタは頭を振った。少しでも疑わしければ、調べてみればいいだけのことだ。──これで、ここを抜け出す理由ができた。 シェルタは白い包みの中に花弁を戻し、手に持つと、そっと部屋の扉を開けた。長い廊下をきょろきょろと見回し、人の眼を警戒しつつ、慎重に部屋から滑り出る。 この離宮の中は、もともと人が少ない。ここに住む《水の一族(アヴェント)》はシェルタ一人であるからだ。それでも部屋の外は監視をかねる女兵士たちが巡回している。 シェルタは厨房にまわり、その裏口からこっそり抜け出た。振り向くと、離宮は迫ってくるような威圧感をもってそびえ立っている。壁は一面白く、角のある四角い建物で、いくつものアーチ窓があり、突き出たベランダには手すりがある。 シェルタが住んでいるのは最上階の三階だった。 離宮は島の南にあって、外海に面している。 青い──アヴェント・ブルーよりも深い色が、波を寄せては返しつつ、ずっと向こうまで広がっている。 シェルタはきびすを返し、館を回り込むようにして目的の場所へと向かった。 離宮の敷地から抜け出ると、赤茶の民家の群れが広がる。小さな浮島の数々を結ぶ橋と、複雑な地形のために無数に入り組む小路、民が休息の場とする小広場も数多く存在する。 だが、もっとも眼につくのは離宮を背に庇うようにそびえ立つ宮殿だ。 《水の一族(アヴェント)》が本来住む水宮殿《ヴィア・ラッテア》。 離宮の比ではない、白亜(はくあ)の優雅な建物。敷地の中央に水蓮で埋め尽くした大きな噴水があることから、水蓮の館、などと呼ばれることもあった。 シェルタは自分の家族が住まうそこに視線を吸い寄せられたが、頭を振り、自分の向かうべき場所に急いだ。 水宮殿の西側、島の中央を貫く大運河に面した建物を目指す。それは二階建てで、横幅のある建物だった。一階、二階ともに規則正しいアーチの柱廊が見え、正面には時計塔があり、大きな時計盤の上に鐘がぶら下がっている。島中に鳴り響く鐘は、ここから発せられるのだった。 アヴェントの《観測所》と呼ばれているここに勤めるものたちが、雨の到来などを予測し、鐘を鳴らすのだ。だが、建物の大きさ、その存在の重要度に比べると、驚くほど人手が少ない。 シェルタは楽に、観測所への侵入を果たした。 中は広く、長方形の中にいくつも部屋を抱えていて、階段が一階と二階とを繋いでいる。二階のアーチには一つひとつに窓ガラスがあてがわれているから、たくさんの陽光が入り込んで、内部を明るく照らしていた。 シェルタは忍び足になることもなく階段をのぼって二階へあがり、目的の部屋の前で声をかけた。 |
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