はっとして振り向く。 「君は誰だ?」 低い、弦を弾くような声。見知らぬ男の声だった。 シェルタは大きく眼を見開いて、硬直した。一気に血の気が退いてゆき、雨でもないのに身体が冷たくなっていく。 男は背が高く、紅蓮の色をした双眸でシェルタを見下ろしていた。その鮮烈な色は、まるで闇夜の中の焔(ほむら)だ。 肌は滑らかな褐色で、鼻梁は深く彫刻されて作り物めいた美しさがあった。長い睫毛も、束ねられた髪も黒い。頭を覆うように布を巻いていて、身にまとうのは臑(すね)ほどまでの長さがある上衣だ。一目で、この国の人間ではないとわかる。 男には背が震えるほどに眼を惹きつけるものがあった。まるで漆黒の夜空に浮かぶ赤い月を思わせる。 「……その眼──君も《水の一族(アヴェント)》か?」 とたん、シェルタはすっと頭の芯が凍り付いて、とっさに男の横をすり抜けて走った。 「待て!」 部屋をあのままにしておいてはいけないとか、見知らぬ男がどうしてこんなところに入り込んできたのかとか、目まぐるしく頭をよぎったが、すぐに目の前の恐怖にぬりつぶされる。 (見られた……!!) シェルタは息がつまる感覚に襲われ、転ぶような勢いで廊下を走り、階段を駆け下りた。 一族の中で、シェルタだけが他国に嫁ぐ話が出ず、表の場に出ることがないというのは──明確な理由として、他国に対して隠されている存在だからだ。 一族の長である実父から唯一強く言われていたのが、他国の者に見られてはならない、ということだった。いままでずっとそれは守ってきた。なのに──。 うつむきながら走っていたシェルタは、どん、と何かにぶつかってよろけた。 「……おや?」 シェルタははっと顔を上げ、再び硬直した。 衛兵やフォンテではない。頭一つぶんほど高い位置に、見知らぬ男の顔はあった。白く滑らかな肌に、金の長い睫毛に彩られた翡翠の瞳。髪もまた金で、柔らかそうに波うっている。彫りの深い顔立ちで、その完璧な造形は一幅の名画のようだ。彼もまた、この国の人間ではなさそうだった。長身を包むのは白に金の糸を縫いつけたマント、それを留めるのは剣と薔薇を象(かたど)ったブローチで、マントの下にはすらりとした脚衣と長い皮靴、軍服に似た装いだ。先ほどの男とは対極の、陽光のような男だった。 「大丈夫ですか?」 「は、離してっ!」 ぶつかってきた娘をとっさに支えたため、男はシェルタの手をやんわりとつかんでいた。 シェルタがそれを振り解こうとしたとたん、階段の上から男の鋭い声が聞こえた。 「その女性を留めておけ!」 びくりとシェルタが身を震わせると、金髪の男の視線が降る。シェルタはもがいた。 「落ち着いてください、銀の姫君。私たちはファルファラ姫の婚約式に招かれたものです。友人がどうしてもここでお聞きしたいことがあるというので、無礼を承知でお邪魔しました。姫がここの管理をしていらっしゃるのですか?」 低く甘やかな声だった。だがそれに反して、拘束は解けない。 シェルタは激しく頭を振った。そうしている間に先ほどの黒髪の男が足早に階段を下りて近づいてくる。 「……よもや賊ではあるまいな」 「カルフ。この銀光の姫の瞳を見てから言っているのか?」 シェルタは焦燥に駆られながら振り返った。褐色の肌に赤い瞳をした男は、警戒を露わにしてこちらを睨んでくる。その眼光はシェルタがいままで見たことのない険しいもので、ぎゅっと胃が引き絞られる。 激しい怒り──。赤い瞳を見て、とっさにそんなことを思う。 その燃え盛るような双眸にそれ以上映りたくなくて、シェルタは強くもがいた。 「──っ離しなさい無礼者!」 突然声を荒げたことに、金髪の男は驚きの表情を浮かべる。 男の腕が離れた隙に、シェルタは全力で逃げ出した。 |
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