『アヴェントの娘』無料試し読み4





「フォンテ兄上ーっ! 今夜のファルの婚約式のことで──って、え?」
 勢いよく飛び込んできたのは、やはりアヴェント・ブルーの瞳を持った、はつらつとした少年だった。今年で十四を迎える少年は明るい顔立ちをしており、走ってきたらしく息を乱している。だがフォンテの傍らにいる人間を見て、眼を見開いた。
「シェルタ姉上……なぜ、ここに?」
「……セレーノ……」
 シェルタは言い淀みながらも少年の名を呼んだ。無邪気な青の瞳に刺々しさはない。だが、それだけになぜお前がここにいるのかと率直に問うてきているようだった。離宮に住まわされ──隔離された人間が、なぜここに、と。
「セレーノ、悪いが後でまた話を聞かせてくれるかな。ちなみにシェルタは僕がここに呼んだんだ。たまには息抜きしたいだろうと思ってね。僕の好意を悪く吹聴しないでほしいな。ほら、お菓子をあげるよ」
「なっ、僕を食べ物でまるめこもうとする気ですか!?」
「菓子はきらいかい?」
「……そんなことはありませんけど」
 セレーノはむっとしながらもしっかりと菓子を受け取り、じゃあまた後で、と渋々引き下がった。その際、シェルタに複雑な視線を一瞬向けることは忘れなかった。
「セレーノはやんちゃだね、心臓に悪いよ」
「……ごめんなさい、兄様」
「謝ることはないさ」
 フォンテは微笑した。
「今夜……ファルファラの婚約式があるのですね」
「……うん、まあね」
 シェルタはそのことをいま知った。もとから招かれていないのだから、当たり前だ。たとえそれが異母妹であるファルファラのものであっても。シェルタ以外の一族全員が参加し、他国からも祝いの使者が駆けつけ、盛大に祝うものであっても。
「お邪魔してしまってごめんなさい。戻ります」
 シェルタがつとめて明るく笑うと、フォンテはかすかに表情を動かした。
「……婚約式は西宮で行われてね。その間、ここや東宮は人が少なくなる」
 言って、フォンテは鍵を取り出し、シェルタに渡した。
「兄様?」
「ここからは花火も水上演奏もよく見える。実験器具だってある。婚約式の間、誰にも邪魔されないですむよ」
 にっこり笑うフォンテに、シェルタはきょとんとしていたが、やがてその意味を悟って表情を明るくした。婚約式にはシェルタは出席できない──だが、人がそこに集まっている間に、この観測所に来て好きなだけ眺めたり、実験器具を使ったりしていい、と言ってくれているのだ。
「ありがとうございます、兄様!」

 その日の夜、水の国《アクアテラ》はいつにも増してにぎやかだった。この国の象徴にして神聖とされる《水の一族(アヴェント)》の娘と、他国の王子との婚約を盛大に祝うべく、元首と議会の指揮のもと式典が催された。
 アクアテラは島を貫く大運河により、西と東に分かれている。西側地区のめぼしい建物といえば、《水の一族(アヴェント)》の長の側室たちが住まう宮殿、《ヴィア・ラッテア》の西宮だろう。日頃は東宮で一族の長と正室、その直系の子供たちが住まっており、西宮は側室とその子供たちにあてがわれていた。
 シェルタは大運河に面する観測所の二階から、対岸の華やかな灯りを見つめていた。今頃は、西宮の大広間などで、各国の人々と一族の者、この国の政治的要人たちが集まって宴が催されていることだろう。
 いつもはシェルタの身の回りの世話をしてくれるノーチェも、今日は式典に駆り出されている。幸か不幸か、警備に回る者も多くがそちらへ引っ張られていったので、シェルタが離宮を抜け出すことは容易だった。
(みんな、楽しんでいるのかな……)
 婚約したファルファラは確か今年で十三。シェルタより四つも下だ。だが、アヴェントの娘なら他国へ嫁ぐのは当然のことであり義務なので、ファルファラの婚約が早いというわけではない。それにシェルタの上の姉たちは皆とうに他国に嫁いでいる。
 既に適齢期に突入しているにもかかわらず、シェルタだけがそういった話の対象にならない。アヴェントの娘である以上、自分にも義務があり、それを果たしたいと思っているのにもかかわらずだ。
 一人だけ離宮に住まわされているのも、表舞台に出て行けないのも、大切にされすぎて、というのとは違う。かといって蔑ろにされているのかと言われれば、それも違う。
 どうして自分だけが宙に浮いた扱いを受けるのか、シェルタにはわからなかった。
(……理由がわかったらいいのに)
 たとえば力が弱いからとか、立ち居振る舞いが優雅でないとか、外国語を習得していないからとか、見目が悪いからとか──明確な理由があれば、それを改善すべく努力する。目標をもって前進することができる。
 無意識のうちに、襟元の首飾りに触れ、滴型の宝石を撫でる。そうしてからふと、机の上にある試験管に眼をやった。ほとんど惰性で続けられるものになっているとはいえ、ここは一応観測機関で、雨が降るたび、その水を保存している。異常がないか、確認するためだ。
(……念のため、調べておこう)
 昼間、セレーノの乱入によってうやむやになってしまったが、雨の毒性が本当に変わっていないかを確かめなければならない。
 大魔との戦いに海の神が勝ったあとから、いままでずっと変わらずにいる海──その海面が蒸発し、空へ舞い上がって雲となり、滴を降らす。いわば雨もまた海の延長上にある。海が不変ならば雨とて同じだ。あまりにも変わらないために、観測所で勤勉にはたらく人間はフォンテぐらいなものになり、そのフォンテも雨の予報をするだけになったぐらいだ。
 シェルタは薬品の染みこんだ紙に今日採取した雨水を数滴垂らし、反応が出るのを待った。たぶん、いままでと変わらないことを示す《白》が現れるだろう。
 隣の試験管にも同じ雨水が入っている。シェルタは何気なくそちらに視線を向けると、そうっと取り上げ、右の掌の上で試験管をひっくり返した。掌のくぼみに、うっすらと青みがかった雨水が触れる。海よりだいぶ薄くなっているとはいえ、確実に毒性を帯びた水だ。
 一族の者には、それが感覚としてわかる。
 シェルタは眼を閉じた。右手にたまった水に意識を集中させる。すると、煮沸したときのような音をたて、水がはねた。シェルタが碧眼を開くと、掌にはまったく色のない、透明な真水が現れる。
(……やっぱり、私にはこれが限界か)
 軽い頭痛を覚えながら、シェルタは右手を拭った。
 毒の溶けた水を浄化し、飲めるほどに澄んだ水へ還元する──《水の一族(アヴェント)》だけが持つ、神聖なる力。海神《オチェーアノ》の眷属が先祖であると謳われるのも、一族の娘が他国へ嫁ぐのも、すべてはこの力のためだった。
 一族の中でもっとも力の強い男は長となる。シェルタの実父──シンティリーオが、いまの長だった。
 あの冷厳なる紺青の瞳を最後に見たのはいつだっただろう。
 シェルタは感傷に沈みそうになる自分を叱咤し、わざと声を出して息を吐いた。
 それから、反応が出たはずの紙を見る。
 結果は白。フォンテの言った通りだ。いつもより変色の進行が速いなど、気のせいだったのだろう。
 安堵か、落胆なのかよくわからないものを抱えて器具を片づける。窓の外に眼をやれば、色とりどりの光が運河に反射しているのが見える。式典はこれからまだ盛り上がるだろう。
 シェルタはこれからの時間をどう過ごすべきか考え、何か、フォンテのいない間に役に立つことはできないかと辺りを見回した。すると、机の上に記録帳が置いてあるのが眼についた。
 手にとってめくると、《水蓮》の栽培記録が書かれている。
(……様子を見てこよう)
 シェルタは部屋を出た。昼とは違う静けさの漂う細長い廊下を奥まで歩いてゆく。突き当たりには扉があって、その先に足を踏み入れるとガラスの天窓がついた広い部屋に出る。そこは昼は日光が、夜は星光が降り注ぐようになっていた。
 ひんやりとした、ほのかな芳香が鼻腔をくすぐった。足元に視線を落とすと、石造りの床は二歩先までしかなく、床のほとんどは水と、その表面を《水蓮》の蕾と葉が覆っているのが見える。この部屋がまるごと、観測所内にある《水蓮》の巨大な鉢だった。底には土が敷かれ、その上から注がれた水は青色をしている。アクアテラではいくつも栽培所があり、ここもその一つだ。他と違うのは、養分が足りていない、あるいは養分の摂取過剰で発育に支障をきたしたものを治療するための場だということだ。
 シェルタはわずかな足場に屈みこみ、水に手を浸した。薄まっているとはいえ、毒素を含んだ水は肌をかすかに刺す。浮かんでいる葉をそっと指先でつつく。
(ちょっと元気がない。自力で回復するにはもっと時間がかかるかな)
《水蓮》は水中にある毒を吸収し、成長する特異な植物だ。だが《水蓮》自体が少しでも 弱るとたちまち吸収した毒に汚染され、枯れてしまう。かといって毒の吸収量が足らなければやせ細り、寿命を縮めてしまう。
 記録帳には、ここに移されている《水蓮》はみな希少な種で、弱ったものばかりと書かれていた。毒素に冒されるほどではないにしても、うまく吸収できていないのだろう。
 シェルタは眼を閉じ、水面に触れた手に意識を集中した。青い水が、かすかな《力》──《水の一族(アヴェント)》の浄化の力を受けて波紋を広げてゆき、震える。やがて、《水蓮》が芳香を強くした。固く結んでいた蕾が綻びかけ、いくつか開花したところで両手を水面から離す。
(よし。これで大丈夫かな)
 毒素の除去まではいかなくとも、力を使ったことで《水蓮》が呼応し、活性化している。自力での回復を待つよりは、ずっと早く回復していくはずだ。これぐらいのことならば、自分にもできる。記録帳に書いてこよう、とシェルタが立ち上がると、ふいに人の気配がした。




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